屋島寺

屋島寺の四天門 八洲(やしま)の列島の西にあり遥か古来からの歴史と水面を湛える瀬戸内海(せとないかい)の沖を南へ、寄せては返す潮波をそこで受け入れるところ数多の浦々は、今に四国(しこく)と申しますところの伊予(いよ)と讃岐(さぬき)の地の浦である。

 香川県(かがわ-)。讃岐国(さぬきのくに)の後裔たるこの地の今の機能の中心といえようところが、古の時代からのこよみの先に近世の頃より高松城下の港の町として栄えてきた、その名を高松(たかまつ)という地である。近代を過ぎてからというもの市制を発し、今に高松市というこの地は、この八洲の国に有数ともいう美観に彩られることで名高い[1]

屋島の一ヶ寺
 北に瀬戸内海の潮を見据える高松の市街から北に外れたところに、屋島(やしま)という名の小島がある。太古の代からその名を知られるこの屋島は、平安時代(へいあん-)の末期にあたる元暦(げんりゃく)の頃、西暦のもとの1185年の頃に源氏(げんじ)と平氏(へいし)の戦(いくさ)が火を噴いたところで、今ではその歴史を古戦場として封じ、島の全部にわたるところ、史跡と天然記念物としての指定を国から受けるところとなっている。

 古くは高松の岸からやや離れにあったこの島は、江戸(えど)の時代(西暦1600年頃-1867年)を経て、今では川で隔てられるのみのところとなり、かつては木田郡(きた-)に属して屋島町と称したひとつの町であったが、やがて高松の部分となり、今では大字(おおあざ)―屋島。地内は中町(なかまち)、西町(にしまち)、そして東町(ひがしまち)とのように分かたれている。

 このうちの東町。島のちょうど中央にあたるところにあり、この島の名をその名として称する小峰は、景勝、屋島山。この山は、『北嶺』、そして『南嶺』と、文字通り北と南に大きく分かれ、観光の名所ともなった屋島に横たわり、島の美観を形作っている。

 北の大潮の向こうに備前(びぜん)―瀬戸内(せとうち)を見据え、東に播磨灘(はりま-)を見据えるところ。その南のところ―『南嶺』の頂に、南面山(なんめんざん)と号し、千光院(せんこういん)と号する、一ヶ密寺の伽藍がある。[2]
屋島寺の鐘楼
霧に包まれた境内と鐘楼

  • 寺号:屋島寺
  • 院号:千光院
  • 山号:南面山
  • 宗派:真言宗御室派
  • 本尊:十一面千手観世音菩薩
  • 開基:鑑真
  • 開山:天平勝宝五年(西暦753年)
 屋島寺(やしまじ)―遥か大陸は唐(とう)より渡り来た高僧・鑑真(がんじん)の開基というこの寺は、(てんぴょうしょうほう)という悠遠の昔に興りの時を迎えて、今に真言宗(しんごん-)、京都(きょうと)右京(うきょう)の仁和寺(にんなじ)を本山に仰ぐ御室派(おむろ-)の一ヶ寺、弘法大師(こうぼうだいし)―空海(くうかい)にゆかりの遍路(へんろ)、世に言う四国八十八箇所の第八十四番の札所(ふだしょ)を兼ね、そこに伽藍を置いている。[3]

歴史
 興りは天平勝宝五年―奈良時代(なら-)といわれる頃に遡る。[4]

 唐の高僧ながら、自らのもとを訪れた日本の国の僧の願いを聞き入れ、仏教の戒律(かいりつ)を伝えるべくと海を渡った鑑真和尚(-わじょう)。幾度もの失敗を重ねた末に、和尚がとうとう渡海に成功し、今の九州(きゅうしゅう)の地を踏まれたのが天平勝宝五年のことであった。

屋島寺の仁王門
仁王門
 時の都(みやこ)は平城京(へいじょうきょう)。今の奈良県(なら-)にあたるところのこの地に和尚は歩を進めてゆく。その道中、いずれのゆえにか屋島の地を訪れた和尚の手により、今の北嶺にあたるところに一宇の堂が建てられた。[4]

 普賢堂―そう名付けられたこの堂は、のちに和尚の弟子たる恵雲という律師による新たに精舎(しょうじゃ)の建立を受け、初代の住職として同師を受け入れ、律宗(りっしゅう)の寺としてそこにしばらくの時を刻んでゆくのである。この師は空鉢ともいわれた人で、歴史にあまりに名のある巨刹―東大寺(とうだいじ)の戒壇院(かいだんいん)の第5代の長老となった人である。[4][6]

 それから60年余の時を経た頃、この地を訪れた僧の手により、堂は元あった北嶺にあたるところから、今の南嶺にあたるところに移され、それまでの律(りつ)から新たに真言(しんごん)へと宗を改められる。その移転とともに一夜で完成したという本堂は、わずか一日で造営を終えられたという伽藍に座して、十一面千手観世音菩薩(じゅういちめんせんじゅかんぜおんぼさつ)を本尊に納めた。時は弘仁六年(西暦815年)、その僧とは、唐から帰り来てのちの幾ヶ年を経た頃の空海―のちに弘法大師と呼ばれることになる名僧その人であった。[4][2][6]

屋島寺の千躰堂
千躰堂
 平安(へいあん)の代(794年-1185年頃)のはじめの頃には、山岳仏教の霊場として、その間実に盛大にあった。[6]

 時は下り、鎌倉時代(かまくら-)といわれる頃(西暦1185年頃-1333年)に至って以後、一時は衰退の時を見る。この時代の後期の頃に、今に遺される本寺の本堂が創建され、貞応二年(西暦1223年)の頃にはこれまた今にも遺される鐘が鋳られた。[3][5][9]

 更に時は下って江戸(えど)の時代が幕を開けると、この地を治めた生駒家(いこま-)、そして松平家(まつだいら-)という、高松藩主代々からの庇護を受け、再興の時を見るのである。[5]

 慶長(けいちょう)の十六年(西暦1611年)に始まった本堂の大修理は、解体を伴うもので、元和(げんな)の四年(西暦1618年)に至るまで続いたものであった。[9]
屋島寺の三躰堂
三躰堂

伽藍
 境内は南嶺の頂に位置している。

 遍路道から訪れた参拝者がはじめにくぐるのが仁王門(におう-)で、その先に阿波藩主(あわ-)蜂須賀家(はちすか-)の寄進という四天門(してん-)が迎え立ち、その奥に本堂が迎え立つ。[7]

 鎌倉時代に創建されたこの本堂は、江戸時代の間に幾度かの改修を受けるも、昭和三十二年(西暦1957年)に行われた解体修理を機に、2年の歳月を掛けて創建時の姿に復元されたものである。瓦葺(かわらぶき)にして朱塗り(しゅ-)の柱を携えるこの本堂は、内に納める本尊―弘法大師の作であるという、前身漆塗り(うるし-)にして金箔(きんぱく)を置いた、榧(かや)の一木造りの十一面千手観世音菩薩―、貞応二年(西暦1223年)に鋳られたものという古鐘―平家供養の鐘―とともに、国の重要文化財に指定されている。
屋島寺の本堂
本堂
[4][5][9]

 本堂の右横に、狸(たぬき)の石像と数多の赤の鳥居を携える、蓑山大明神(みのやまだいみょうじん)という社がある。日本三大狸の一つに挙げられるというこの社は、四国の狸の総大将という『太三郎狸』を祀る神社で、屋島に異変の兆しがあるときに前もって住職にその旨を知らせたなどの太三郎狸の逸話を伝え、家庭円満、縁結び、水商売の神様として鎮座している。[3][2]
屋島寺の蓑山大明神
蓑山大明神

 そのほか、千手観音(せんじゅかんのん)を祀る千躰堂(千体堂)、阿弥陀如来(あみだにょらい)・と釈迦如来(しゃかにょらい)と鑑真和尚を祀る三躰堂(三体堂)、空海を祀る大師堂、熊野権現社、源平合戦の遺物や宝物などの、寺に伝わる宝を保存し展示する宝物館などの事物が、あわせて伽藍を成している。[5][7]
屋島寺の見る瀬戸内海
凪の瀬戸内海

 境内は瀬戸内を一望に見る。

 霊妙の水面を見下ろすその展望は、まさに絶景である、という。[8]

  • 祭事[6]
  • 3月21日 彼岸会
  • 3月21日 正御影供
  • 旧暦4月11日 土砂加持
  • 旧暦9月9日 鎮守祭

文献資料
  1. 高松市のプロフィール - 高松市
  2. 大きな字の本 四国八十八ヵ所のあるきかた - ゼンリン道路地図製作部東京編集室 ISBN:4432904852
  3. 四国遍路〈4〉涅槃―讃岐・香川編 - 横山良一 ISBN:4048837591
  4. はじめての四国八十八カ所いたれりつくせりガイド - 双葉社 ISBN:4575295329
  5. 四国八十八カ寺&周辺ガイド - エスピーシー ISBN:4883382567
  6. 屋島寺の縁起 - 屋島寺
  7. 境内 - 屋島寺
  8. 四国八十八ヵ所を歩く - 著:へんろみち保存協力会/編:山と渓谷社大阪支局 ISBN:4635011143
  9. 本堂 本尊 釣鐘 - 屋島寺

所在は香川県高松市屋島東町1808。最寄の電停は高松琴平電気鉄道志度線潟元駅または同線琴電屋島駅。ほど近くに、新屋島水族館(隣接)、旅館『桃太郎』(隣接)、屋島物産館(隣接)、獅子ノ霊厳(西方)、塩釜神社(南西)、屋島幼稚園(南西)、市営住宅屋島西町新浜団地(西方)、県営住宅屋島西団地(南西)、高松市立屋島西小学校(南西)、屋島神社(南方)、大宮八幡宮(南方)、四国村(南方)、屋島山荘(南方)、山王神社(南方)、のぞみ幼稚園(南方)、高松市立屋島中学校(南方)、高松市立屋島小学校(南方)、遍照院(南方)、八坂神社(南方)、地蔵寺(南方)、佐藤継信の墓(東方)、安徳天皇社(東方)、高松市立屋島東小学校(東方)、塩釜大明神(南東)、成田山聖代寺(南東)、世界救世教会(南東)、県営住宅屋島東団地(南東)、などがある。

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