日本列島(にっぽん-)のほど中央部やや東方の内陸部。かつて信濃(しなの)の国と呼ばれたところは、長野県(ながの-)として今にあり、信州(しんしゅう)―とそう時に呼ばれ、今の世に時を刻んでいる。 この地に聳えるは八ヶ岳(やつがたけ)という名の連峰(れんぽう)、そのうちの一峰に、蓼科山(たてしな-)という山がある。 蓼科山 県域の中東部に位置する八ヶ岳の連峰は、この地の諏訪(すわ)と佐久(さく)という、二つの地域を分け隔てる。蓼科山はこの連峰の北の端に位置し、茅野市(ちの-)と立科町(たてしな-)という、二つの町にまたがり聳えている。名山として名高いこの山は、八ヶ岳の連峰のうちの峰にありながらも、やや離れにあってまるで孤高を誇るかのように聳え、諏訪富士―そう呼ばれることがあるように、その威容は美とともに語られ、古来より神の山として祀られるものであったという。[1][4] 蓼科神社(たてしな-)―今にそう呼び習わされるこの神社は、霊妙なるかの神の山にあり、古来よりそこに連綿と営まれてきた、山岳信仰の名残を伝えている。歴史 興りについては詳らかでないところが多い。古くには高井大明神(たかい-)と呼ばれ、俗に飯森神(いいもり-)、八王子権現(はちおうじ-)、八塩権現(やしお-)などとも呼び習わされてきた。[2]
この里宮のことが現れる記録に、元慶(がんぎょう)の代の二年(西暦898年)の頃のものがある。蓼科神(たてしな-)として現れるその史籍(しせき)には、それまで正六位であったこの宮の位階が、時の帝(みかど)の陽成天皇(ようせい-)の授けによって『従五位下』となされた、という、いわゆる叙位(じょい)についての記録がある。[2] 『神代杉』と呼ばれる御神木(-しんぼく)は藩政の時代から保護を受け、伝えによれば、江戸(えど)の時代には、宮の秋の祭事の主役を務める屋台が小諸藩(こもろ-)の推挙で造られた。[3]時も下って近代に入り、明治八年(1875年)に至って、それまで高井大明神とされていたのが、蓼科神社という今の名に改称された。[2] 境内 境内は、蓼科山の麓の人里に位置する『里宮』、そして蓼科山の頂に位置する『奥社』とに分かれている[2]。里宮のある人里は芦田(あした)というところで、戦国時代(おおよそ1493年-1573年頃)の後期に使用されたものという山城の遺跡―芦田城跡から西方ほど近くの場所である[5]。山のちょうど七合目の地点にある鳥居は、登山道の入口を兼ね、元慶の代の叙位のときの創建とも伝わる頂の奥社へと、参詣の者を誘う。[4] 麓の里宮には『神代杉』と呼ばれる杉の木がある。目通りおよそ10m、樹高39mにして、1500年の樹齢というこの木は、この里宮の御神木として藩政時代から保護を受けてきたもので、平成元年(1989年)の調査のもとでは、長野県内で10番目の大きさを持つ巨木に定められている。[2]祭事 里宮が現在地に移された享保年間に始まったものという、秋口の祭が伝えられている。[3] 里宮の所在地の芦田地区において古来から行われてきた祭で、江戸の時代の中頃の造と伝えられる屋台を中心に、囃子(はやし)とともに行列が秋のこの里中を巡行するのである。[3]小諸藩の推挙で造られたものと伝えられるこの屋台は、檜(ひのき)を材とし、黒漆塗りの彫刻、彫金金具の飾りに、緞帳(どんちょう)には色彩豊かに刺繍(ししゅう)が施されたもので、今には『蓼科神社秋祭用奉納屋台及び雅楽器一式』として立科町の文化財に指定されている。[3]
文献資料
所在は長野県北佐久郡立科町大字芦田424(里宮)。ほど近くに曹洞宗南嶽山光徳寺などがある。 |
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