八州(やしま)の列島ほど中央部に雄大なるかの水面を湛える、霊妙の大湖、琵琶湖(びわこ)。あまりに名のある遥かなる湖。その周囲にわたって民々の地を形づくるは、近江(おうみ)の湖国(ここく)、滋賀県(しが-)である。 滋賀はその南方で、三重(みえ)と京都(きょうと)の県府との境界をそれぞれのところに据える。そのちょうど南端に位置するところに、甲賀(こうか)という地がある。 『甲賀』 滋賀県、甲賀市。これすなわち、古くは郡―甲賀郡以下、水口町(みなくち-)、甲南町(こうなん-)、信楽町(しがらき-)、土山町(つちやま-)、甲賀町(こうか-)という五つの町の、平成16年(2004年)度の合併によって新たに生まれた市である。甲賀―伊賀(いが)のそれとともに両翼をなす、甲賀流(こうが-)の忍術の里にまつわる名である。『土山』 市のうちの東方。ほど間近に三重との境―鈴鹿峠(すずか-)を据えるところに、土山(つちやま)という名の地がある。これかつて甲賀郡―土山町としてあった地域である。今に国道の貫通するこの地は、往時、近江路を伊勢に出る街道―東海道のはたどころの宿場の町、いうて東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)の49番目の宿場として、古来から平安(へいあん)の京と伊勢の神宮とを結んだところであった[1]。田村神社 鈴鹿峠を越えてやってくる旅人。その者達がこの土山において必ず立ち寄り詣でたという、古の代の武人にその名のゆかりとその興りのゆかりをもち、その者を今に至る時まで祀る、一箇の社がある。[2]
歴史 興りは垂仁天皇45年(紀元前47年)とも弘仁13年(西暦822年)ともいう[3]。当社の公式に伝えるところによれば、弘仁元年(西暦810年)、当時の帝(みかど)の嵯峨天皇の勅を受けた坂上田村麻呂が、この地をゆく旅人を苦しめていた悪鬼(あっき)を討伐し、もって旅人達の道中にひとときの平安をもたらしたのだという。[4] しかしわずかの時を経て、その悪鬼の祟りによって、農作物の不作、更に疫病(えきびょう)が流行し始める。そこで弘仁3年(西暦812年)のときに至って、嵯峨天皇のふたたびの詔(みことのり)により、厄除(やくよけ)の大祭が行われ、ここに今に至る田村神社の歴史が始まった、と。[4]ついで、興りについてはもう一説ある。時は垂仁天皇45年(紀元前47年)、鈴鹿明神との名をもって倭姫命の神霊を祀ったことに始まり、弘仁13年(西暦822年)に至って、当時の帝の嵯峨天皇により、坂上田村麻呂が合祀され、社号が今に至るところの田村神社に改められた、と。[3] いずれにしても、太古の宮たることには違いない。境内
本殿は、いわゆる江戸(えど)の時代(西暦1603-1867年)に焼失にあって再建されたものである。築は元文4年(1739年)。[4] 坂上田村麻呂の伝説にちなむ数多の事物、弓矢にまつわる事物が随所に散在しており、せせらぎの音の絶えずこだまする、ひんやりとして静謐な空気に包まれた場所であるという。[2]名のある祭事『厄除大祭』 宮には厄除大祭という、宮の興りにまつわる主祭神―坂上田村麻呂の伝説にちなんだ、名のある祭が伝わっている。[2] 年の如月(きさらぎ)に三日三晩にわたって執り行われるこの祭では、厄除けの祈祷をはじめとして、境内を流れる御手洗川に年の数だけの豆を落とす『厄豆落とし』などの神事を行う。『田村祭』という名でも知られるこの祭の日には、参道には200を数える出店が並び、県内外から30万を数える人々が訪れるという。[2][6]
文献資料
所在は滋賀県甲賀市土山町北土山469番地。最寄の電停は西日本旅客鉄道貴生川駅。最寄のバス停は甲賀市コミュニティバス・あいくるバスの『田村神社前』。ほど近くに、甲賀市立土山中学校(わずか西方)、甲賀市立土山小学校(西方)、永雲寺(西方)、常明寺(西方)、甲賀市隣保館清和会館(北西)、市営和草野改良住宅などがある。 |
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