龍頭山照蓮寺
照蓮寺 Shorenji

2006年10月8日
 日本列島(にほん-)のやや西方、雄大なる歴史、古来よりの美観を今に留める瀬戸内海(せとないかい)。そのやわらかにして穏やかな風に撫でられる安芸(あき)の地の沿海のところ、竹原(たけはら)は南方に海原を見据え、豊かな自然の恵みとともにある、広島県(ひろしま-)の市である。[1]

『安芸の小京都』
 いうて広島県竹原市。『安芸の小京都(しょうきょうと)』と称えられもするこの地は、その中心部からやや東方にかけて、町人文化の華開いた往時の町の面影を濃密に留め、今に観光の名所として世に知られるところとなっている。[2]

『本町』の一ヶ寺
 竹原の地の一角にあり保存地区として伝統的な町並を形作る『安芸の小京都』は、本町(ほんまち)なるところにあって、歴史民俗資料館などの資料の展示の施設をはじめ、名士の旧宅、工房、仏堂、そしていくらかの寺社を擁する。これすなわち、小田山神社、楠神社、本長寺(ほんちょうじ)、西方寺(さいほうじ)、長生寺(ちょうせいじ)、照蓮寺(しょうれんじ)。[3]

 うちの一寺、照蓮寺。この浄土真宗(じょうどしんしゅう)の古寺は、今に龍頭山―定林院(じょうりんいん)と号し、今や国の重要文化財でもある、それはそれは途方もないともいえるほどの古い鐘を有することで名高い。[3][4][5]

  • 寺号:照蓮寺(しょうれん-)
  • 山号:龍頭山
  • 院号:定林院(じょうりん-)
  • 宗派:浄土真宗(じょうどしん-)
  • 開基:不明
  • 開山:康安元年(西暦1361年)以前

歴史
 興りの時期と開基の僧についてはどちらも定かでない。本寺の現れる記録のなかで最も古いものは、毛利家(もうり-)に関係する文書の一つ、『萩藩閥閲録(はぎはんばつえつろく)』で、康安元年(1361年)のことを記して『定林寺(じょうりんじ)』という名が見える。この記録の通り、慶長(けいちょう)の代(1596-1615年)の中頃までの本寺は、近き高坂(たかさか)の地の臨済宗(りんざいしゅう)の禅(ぜん)の大寺・仏通寺(ぶっつうじ)を派とし、定林寺と号する、曹洞宗(そうとうしゅう)の禅寺であった。そして当地安芸国の豪族・小早川氏(こばやかわ-)の歴代の学問所であったものと伝わる。[6][7][8]

 ちょうど戦国時代(1493年頃-1573年頃)の終わった文禄(ぶんろく)の頃には荒廃のときを辿っていたが、播磨国(はりま-)から迎えた浄喜(じょうき)という名の僧によって、慶長8年(1603年)に浄土真宗の寺として復興のときを見た。ここに照蓮寺としての本寺の歴史が始まったのであった。元和4年(1615年)には当時の僧・宗味が本山・本願寺(ほんがんじ)に上り、龍頭山の山号、そして定林院の院号を受けて本山直下の末寺(まつじ)となる。[6][7]

 以後照蓮寺は優れた学問僧を次々と輩出し、江戸(えど)の代(1600年頃-1867年)も中ほどになった頃から、竹原の地の文化の集積どころになっていった。享保2年(1717年)には宝形造(ほうぎょう-)の経蔵(経堂)が落慶、元文2年(1737年)には本堂が落慶し、明和3年(1766年)には『龍頭山』の扁額(へんがく)を掲げる鐘楼門(しょうろうもん)が落慶した。[6][7]

 時も下って明治(めいじ)の代(1868-1912年)、その終わりの頃に至ったとき、寺宝の鐘が国の重要文化財の指定を受ける。それから80年の時を下り、平成(へいせい)の代(1989年-)になって、同代の2年(1990年)から5年(1993年)の間にかけて、本堂、経堂、鐘楼門などの大きな修理が行われた。そうして今の寺観に至っている。[5][7]

伽藍
 鯉(こい)泳ぐ溜池を据える参道を入り石段をあがると、金文字『龍頭山』の扁額を掲げる明和3年(1766年)の落慶の鐘楼門が迎える。くぐって入った境内には、元文2年(1737年)の落慶の本堂、享保2年(1717年)の落慶の経堂、本堂と長廊下で結ばれた庫裏(くり)などが位置する。裏手に名のある庭園『小祇園』を配するこの庫裏は、その玄関の対面のところにこれまた名のある鐘『朝鮮鐘』を見据え、石の燈籠(とうろう)を携える本堂の脇にたたずんでいる。[6][7]

 『小祇園』は室町時代の築という庭園で、泉を中心に据えるそこには、春から順次に躑躅(つつじ)、皐月(さつき)、菖蒲(しょうぶ)が咲き乱れ、秋には紅葉(こうよう)が映え、しっとりとした趣をもったそのたたずまいで、当地広島県下でも屈指の名園と評されている。[6]
  • 文化財
  •  朝鮮鐘(ちょうせんがね):国指定;本寺が定林院と号していた中世(ちゅうせい)と呼ばれる時代から本寺に伝えられている銅の鐘(かね)で、鋳造の地―朝鮮―とその時代―高麗(こうらい、こま)―という背景から、高麗鐘(こまのかね)とも呼ばれる。峻豊4年との旨の銘があり、これはこの鐘が西暦のもとの963年に鋳造されたものであることを伝えている。この鐘は、一説には、本寺とゆかりの深かった小早川隆景(こばやかわたかかげ)が、太閤・豊臣秀吉(とよとみひでよし)の命によって文禄の役(ぶんろく-えき)―いわゆる朝鮮出兵に出陣した文禄2年(1593年)の折に朝鮮から持ち帰ったものといい、また一説にはそうでなく貿易品であるという。いずれにしても、もとは朝鮮の地に―その半島の南端の地に―今にいう大韓民国(だいかんみんこく)の全羅南道(ぜんらなんどう)の地にあったものといい、明治43年(1910年)の4月20日をもって国の重要文化財の指定を受けている。[4][5][7]

文献資料
  1. 市のプロフィール - 竹原市
  2. 安芸の小京都、竹原 - 加古川からの小さな旅
  3. 竹原観光・イベント情報 - 竹原市
  4. 史跡・スポット - 戦国群像homepage
  5. 銅鐘 - 竹原市
  6. 竹原観光・イベント情報[ 観光スポット情報 - 照蓮寺 - ] - 竹原市
  7. 安芸竹原照蓮寺 - 久保郷土文化館
  8. 秋のおススメ・スポット 仏通寺 三原市高坂町 - オッキーの 放課後通信

所在は広島県竹原市本町3丁目13番1号。最寄の電停は西日本旅客鉄道呉線竹原駅。ほど近くに、古庭公園(わずか西方)、天理教分教会(わずか東方)、貞光両神社(南東)、竹原市立竹原小学校(南東)、県営田の浦住宅(東方)、竹原拘置支所(東方)などがある。


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